わたしは、アラフォーのころ、
1年間だけですが、「オンナ」であることを武器にする仕事をしていました。
風俗は、特殊な仕事ですよね^^;
「生きるか死ぬか、やらねばなるまい」とかなりの覚悟をするか、
深く考えず「エイ!ものはためし!」って入ってしまう勢いがあるか、
どちらかでないとなかなか・・・しようとは思わないです。
ふつうは、風俗の仕事なんぞ、だれもしたくはなくて、
そして「やっててよかった」なんてちっとも思わないものだと思います。
すべては、自分が生きるためか、誰かを生かすため。
仕事なんて、風俗じゃなくても、そんなものです。
だけど・・・だけど・・・
そんななか、わたしは今まで見たことのない幸せな世界を目の当たりにしました。
わたしがこれからお話しする昔話は、
【170センチ越え・90キロで、
ダサくてブサイクで地味でデブな中年の、
とうの昔に女として見られなくなったオバさんが、
貧乏脱出のために熟女風俗嬢になり、
数か月で老いも若きも関係なく、男性をトリコにする人気嬢に変身し、
とある人物と運命の出会いを果たし、使命に気づく】
という、
トンデモストーリーとなっています。
ちょっとばかり、オバカでネジがはずれている、
だけど、過去最高にドラマチックでジェットコースターな・・・
わたしのそんな過去の話に、しばらくお付き合いいただけたらと思います^^
【デブでブスでババアの話なんておぞましい!と思ったら回れ右です】
171センチ90キロ、人気嬢になる(1)
過去人気嬢の私、いまは幸せです~元嬢の昔話
わたしはアラフィフの女性です。
パソコンを触り、情報を発信し、
さまざまな年齢、状況の女性たちからたくさんご相談を頂き、
好きなことを仕事にして、とても穏やかに過ごしています。
好きなことを勉強し、これと言って困ることもなく、
嫌いな人もおらず、まわりにおきていることをすべてありがたく思い、
そして、過去の様々なことを懐かしく思い出しています。
あんなにたいへんだった私、毎日死にたいと願っていた私。
そんなことはもう、過去のことです。
人には言えない仕事もしましたが、それも今では、
「今幸せを感じることができるための、いしずえ」
とナットクすることができています。
いま、わたしは幸せです。
急な呼び出し
2010年代半ば。
わたしは、総合病院の面接室にいました。
私を育ててくれた養母は、
中年と言える年齢になったころから体の調子を崩しやすく、
持病の治療のため病院通いをしていました。
わたしはわけあって、
生まれてすぐに親戚の間を転々と移動し、
最終的に生みの父の姉のところに引き取られており、
ながらく二人暮らしをしていたのですが、
車で20分ほどの距離のところへ嫁いでからは、
仕事帰りや休日に、身の回りの世話や手伝いをするために、
頻繁に実家に立ち寄っていました。
自由な生活が好きだった養母は、わたしの住んでいるところの近所への引っ越しもずっといやがり、
実家でのひとりの気ままな生活をやめようとはしませんでした。
あまり健康に気をつかわず、それでいて自由気ままに乱れた食生活をしては、
調子を崩し、そのたびに時間構わず呼び出しの連絡が入りました。
正直、親不孝なことですが、
「ひとり暮らしをしたいなら、自分のことはもう少し自分でやろうと思ってよ。
もうちょっとカラダのこと考えてよね」
と思い、呼び出しが来るたびに
「またか」
とため息が出ることが多くありました。
「もういつ死んでもいいのよ。だから好きなことして、好きなように食べてたい。
後で具合が悪くなっても、ほっといてくれたらいいから」
といっておきながら、
いざ調子が悪くなると
「つらい、つらいのはイヤ!死にたくない!
頼むから病院に連れて行って。もうわがままいわない、いう事聞くから」
と連絡してくるのを、
(なんて勝手なんだ・・・それはいったい、何回目なのか・・・
またどうせ、ちょっとなおったら同じことの繰り返しではないのか)
と苦々しく思っていたのが、本当のところです。
当時も、ちょっと転倒して骨盤を骨折してしまい、
長い入院生活に入っていました。
手術・治療を受けていましたがあまり治りがよくなく、
養母も
「治らないならもう家に帰りたい」
と言うようになっていました。
そのたびに、
「治らないのは、病院の食事をしっかり食べないからでしょ。
それに、リハビリつらいって、しない日も時々あるって聞いたよ。
帰りたいなら、ちゃんという事聞いて頑張らんと」
そういって聞かせました。
そのときは、「ウン」としおらしいのですが、
次の日にはすっかり忘れて、同じことを繰り返します。
高齢になっており、
徐々に痴呆が始まっていたのでした。
昔と違って、ひとつの病院、とくに総合病院のような大きな病院には、
長くは入院できないシステムになっています。
すでに、お願いにお願いを重ねて、違う科に移動しながらの入院を続けていましたが、
とうとう、
看護師長さんから、お呼び出しをくらってしまったというわけです。
勤続10年以上の会社で働いていたわたしは、
急な呼び出しに、10人の部下に仕事を割り振って、準備をしてから病院に向かいました。
「ほかの病院を探すように言われるんだろうな・・・」
だいたい、どんなことを言われるのかは察しがついていました。
これまでも、何回も入院をしており、
そのたびに時期が来ると「転院のお願い」をされるのはいつもの事だったのです。
しかし、養母はさまざまな病気を併発しており、
小さな個人のクリニックでは、入院設備が整っていないからと、
断られることが多くなっていたので、
いつも次の病院を探すのには、とても時間がかかったのです。
会社から出て車で1時間、総合病院につくと、
「家族面談室」という小さな部屋に通されました。。
その小部屋に入ると、
主治医の先生、病棟の看護師長さん、理学療法士さん、
管理栄養士さん・・・の他に、病院の事務員さん、
スーツ姿の年配の女性、
そしてお付きの者のように従っている、2人のやや若い男性が並んでいました。
養母はその場にいません。自室で眠っているのでしょう。
もっとも、その場にいたとしたら、
「もう家に帰れるんだ!」と大喜びし、
次の病院の話と分かると、なりふり構わずイヤイヤをするでしょう。
年老いて子供のようになってしまった養母には、
転院の話は聞かせないほうが好都合です。
部屋に入って、席に着いて告げられたのは、予想通りの言葉でした。
「もうこれ以上はここでの入院は無理です」
しかし、その次の言葉は、予想外でした。
「施設に入るか、自宅介護にしてください」
(施設・・!?それか自宅介護ですって?!)
次も入院を考えていたのですが、施設か自宅介護とは・・・
「毎日様子を見に来ていたのですが、まだ病気も骨折も治っていないように感じます。
それに、持病もそんなに良くなっていないのですよ?
それなのに、病院でないところに移動するのですか?」
すると、病院の事務員さんがこう言いました。
「こちらは、ケースワーカーの方です。病院から離れた後の介護計画については、
ケースワーカーさんからの説明をお聞きください」
(病院から離れる?・・・なんでそれを、相談なしに決めていくの?)
頭のなかがうまく回転し始める前に、ケースワーカーさんとして紹介されたスーツ姿の女性が、
わたしが理解できないのに、どんどん話を進めていきました。
「お怪我はまだ完治していないので、動くのは危ないですから、
ご実家は介護ベッドを設置し、ポータブルトイレを置きましょう。
施設が決まるまでは自宅介護になりますからね。
お食事は、宅配のお弁当を毎日配達するようにしましょうか。
在宅介護のサービスの方は、朝昼晩、30分ずつお世話をするよう手配しましょう。
なに、介護保険をつかえば多少は安くなります。
おたくは働いているし、ある程度の年齢なので、
そんな安月給ってことはないでしょう。
お母さま、年金も国民年金だけじゃなくて、
少しだけお勤めの経験があるから、
1か月あたり合計で5万円くらい給付されていますね。
だから、多少は余裕があるでしょう。
土日はサービスの方は来られませんけど、
おたくは会社勤めだから問題ないですよね・・それから・・・」
ケースワーカーさんは、わたしがわからなくても全然問題ない、
拒否権などない、といわんばかりに、
どんどん話を前に進めていきました。
「ちょっとまってください!勝手に話を進めないでくださいよ」
そのころ養母はケガをしている・していないにかかわらず、
すでに激しい痴呆になっており、
自宅介護をするには、
わたしが仕事を辞めてべったりとつかないと、なにをするかわからない状態でした。
1日に3回、それぞれ30分ずつ介護サービスの方がお世話をしてくだされば、
その時間は安心ですが、
それ以外の時間、どうなっているかわからないのです。
そこまで痴呆が進んでいなかったときでも、
ガスコンロに鍋敷きを置いて、その上に鍋を置き、
そのまま火をつけてしまってボヤになったり、
トイレで用をたすのに、場所を忘れて、
ちょっと目を離したすきに台所が大惨事になっていたことも、1度や2度ではなかったのです。
財布がない、保険証がない、
さっきたべようとしたご飯がない!
と、すぐに物を無くすことも増えていました。
おまけに、不安になるとすぐに救急車を呼んでしまいます。
真夏にストーブに火をつけていたり、
真冬に水風呂に入ってふるえていたりなど・・・
そんな母を、連続数時間も一人にしておくのは、不安でしかありませんでした。
なにもかも足りない、持っていない。自分しかいない。じゃあどうする?
「だったら、仕事はやめて介護したら」
というお声が聞こえてきそうですね。
でもその頃の私の、ほかの家族と言えば・・・
夫の父は脳卒中で倒れてから、すでに寝たきり20年、
養母が骨折して入院したころと時を同じくして、夫が急病で救急搬送され、
ちょうど別の総合病院に入院していたのです。
家には同居の夫の年老いた母、そして子供が二人。
しかもそのころ、
上の子供は激しいイジメによる登校拒否、
下の子供は、その頃より数年前にママ友のスマホわき見運転により交通事故にあい、
数か月意識不明重体ののち、奇跡的に回復はしていたものの、
まだリハビリに通っていたのです。
我が家の収入源は、夫がひとりで支えていた自営業と、
わたしが会社員として働いている給料。
いま、夫の収入が0になっている(治療費でマイナスが出ている)状態だから、
わたしの稼ぎがなければ生活が成り立たないため、
仕事を辞める選択肢なんて、考えられなかったのです。
共稼ぎしていれば、どちらかが倒れてもしばらくはなんとかなると思われがちですが、
わたしの暮らす地域は、収入が低い地域です。
共稼ぎ率がとても高いのは、男性の収入が都会に比べて格段に低く、
女性も働かないともともと満足に暮らせない状態だからです。
ちょっとパートをしたら、余裕のある生活ができる、っていうレベルの地域ではありません。
健康な女は、とにかく働かなくてはいけない地域性です。
専業主婦ができるのは、夫が高給どりの家だけ。
同居も多く、家には年寄りだけが残るのが当たり前の土地柄、
その年寄りですら、シルバー人材として、定年を過ぎても、
75歳、80歳になっても外で働き、
その後は家庭菜園や稼業の手伝いで、いついつまでも働くのです。
家に若い女(65歳より若い女)が働かずに家にいると
「遊んでいる」「優雅ね」「いい気なもんね」
と陰口をたたかれる土地柄なのです。
「日本でも有数の、社長が多い地域」とされながら、
社長の妻は、別の会社で働いている、なんてこともある、
ちょっとおかしい地域です。
わたしの夫は自営のため、収入が全く安定しません。
おそろしいことに、月収0の月も、年に数回あります。
わたしの給料がもともと月に手取り10数万でも、
16連勤があろうとも、
月27日労働でもやめてしまうワケにはいきませんでした。
自宅介護は無理・・・なら、
仕事は辞めずに、自分が介護することは諦め、とにかく働き続けて
おばには施設に入ってもらうしか、
家族全員生きていく方法がないのです。
わたしは尋ねました。
「施設は、どのくらいかかりますか?
入りたくてもすぐに入れないと聞いたことがあります。
でも、仕事はやっぱりやめられないので、
働いてどうにかなるなら、施設でお世話になりたいです」
すると、いくつかの提案は出していただけましたが、
今すぐに入居できる、完全看護の施設は、かなり高額。
養母の年金などをすべて持ち込んでも、
1ヶ月あたりあと15~20万円は必要。
ほかのもうちょっと安い施設もあるが、
あいにく入居待機者が多すぎるため、
空きができる(=悲しいですが、施設入居者が亡くなる)までは、
入居ができないのです。
それまではこの高額なところに入らないといけないらしい、とのことでした。
お金が、たりません。
いまの2倍、収入がないとやっていけません。
お金が、必要です。最低でも、今の2倍以上。
でも、これ以上働くのは、体一つだからかなり無理な話です。
行政にたよれ、
生活保護を受けろという声も出てくるかもしれませんが、
行政に頼っても、許可が下りるとは限らないし、
おりたとしても、すぐに援助が始まるかどうかもわからないものです。
行政の仕事は、それなりの段階を踏んで進めていくので、
即断即決とはならないのです。
「じゃあ、貯金は?それなりの年齢だから、ちょっとはためてますよね?」
と思われるかもしれませんが、
貯金は・・・実はもうすでにほぼありませんでした。
わたしは、自分の事のためにお金をつかわないタチだったので、
使わずに頑張ってなるべく確保するようにしておいたのです。
本当に使いたいことが出てきたとき、思い切って使おうと、
少ない収入の中から100万ほどためていました。
いや・・・ウソつきました。
本当に使いたいこと・・・などという希望がある使い道は想定していませんでした。
いまの暮らしからどうしても抜け出したかったわたしは、
子供が成人するか、500万たまるかしたら、離婚しよう。この家を出よう
と考えていたのです。
結婚後、親と義両親の介護に明け暮れ、くたびれた女になっていた私。
たまに化粧したりしても、夫から
「そんなことして何になる。手間と時間の無駄」と言われたり、
自分の友人の奥さんとわたしを比べては
「だれそれの奥さんは、年上だけどとてもきれいだ。おまえは、若いというところしかいいところはない」
と笑われたり(わたしは夫より一回り以上年下です)・・・
(後でわたしが落ち込んでいると、「冗談もわからんとは」と笑われますが、毎日言われたら冗談でもキツイでしょ)
しばらくして、
夫が「子どもの入園先を、私に相談せず、元婚約者に相談する」など様々な不信感が募る出来事がかさなり、
いつの日かまったくのひとりで、本当にしたかったことをしたい、と思っていました。
しかし、養母が倒れる前、
養母が住んでいる家(実家)が
「ほかの家の土地にかかっている部分があり、
その分の借地料が何十年も支払われていない」とわかりました。
そして、その土地の持ち主から、
「乗っかっている建物の部分が取り壊せないなら、買い取ってほしい」
との申し出がありました。
支払わなかったら拒否したらかかっている部分を取り壊して返却しなければいけない状況でした。
養母の家は、すでに斜めになっており、瓦は一部落ち、
古くなりすぎて雨漏りもひどかったのですが、
養母は家を離れることをとても嫌がりました。
まだ養母が元気だったころに
「ここを売って安いアパートに引っ越そう。うちの近くに空き部屋がでたよ」
と話したこともあったのですが、
「わたしはずっとここで暮らしてきたから、
いまさら知らないところに行きたくない。
どうしてもこの土地を離れたくない」
挙句の果てには、
「頼むから、ここに住まわせてほしい!
一生のお願いだから、頼むから、この土地を買ってここに住まわせてくれ」
と土下座で泣かれました。
親子なら、
「何を言っているの!ほかのところに住んだ方が、お金ももったいなくないじゃないの!」
とケンカすることもできたでしょう。
でも、私にはできませんでした。
わたしたちは、実の親子ではありません。
もともと、おばとめいです。
すこし、話を戻します。
わたしの生まれた家は、父親が一代で築き上げた、建設会社を営むお金持ちの家でした。
しかし、生みの母親が妊娠に気づいたとき、
父親が大量に吐血して倒れてしまいました。
だから・・・私を育てていけないと判断した母は、
わたしを生んですぐに手放すことを決めたのでした。
一族の子供を施設に預けるのは嫌だけど、
だれも自分の家では育てたくない、でも、
「大勢集まっているくせにあの一族は子供を施設にやったんだ。とんでもないねえ」と思われたくない
という一族の思いが、いつでもわたしの周りにまとわりついていました。
親戚の大人の都合、見栄がうずまく家庭裁判所で、
一同の、みにくい言い争いを、
当時6歳のわたしは死んだ魚のようなうつろな目で、一年間も聞いていました。
おばとめいだからといって、
自分が産んだわけでもない子供を、年老いてから引き取り、
何十年も育てていけるものではありません。
そんななか、
いちばん貧乏だったおばが、引き取りましょう、と言ってくれたのです。
裁判は、一年をかけて結審しました。
おばだから、みよりがなくなっためいを育てるのはあたりまえ、ではないのです。
わたしはそのことを、十分に知っていました。
だから、100万くらいだったか・・・それまでためていた貯金のほぼ全額を支払って、
あばら家が乗っかっている、しょうもない小さい土地を買いました。
貯蓄預金の残高が、0になりました。
だからもうわたしには、お金がないのです。
兄と姉とは、生き別れ。
生きているのかも死んでいるのかも、わからない・・・
生みの親はとうの昔にこの世にいない・・・
頼る親戚は、いない・・・
だれもが、重荷を背負いたくなくて、おひとよしで断れない伯母に私を押し付けたのだから。
小中高と、貧乏すぎて、汚らしいと思われ、
さけられていたから、親友と呼べる友達もいない・・・
それ以降も親しくなった人がいても、貧乏であることを知られたらまた嫌われると思っていたから、
心の底から人と仲良くなることはせず、いつも一歩以上あえて離れて、
心地よい距離の知り合い、と思われるようにしていました。
お金はどんな人間関係も崩すとよく知っていたわたしは、
しっている人間からお金を借りることはこれっぽっちも考えていませんでした。
銀行などにもカードローンの申請に行ったが、ひとつも審査が通りませんでした。
公的な借金は、できませんでした。
わたしは恥を忍んで、勤めている会社の社長に頭を深く下げ、直談判をしました。
「社長、どうしても今、親の介護でお金が要ります。無理を承知でお願いします。
給料の前借はできませんか」
社長はしばらく黙っていましたが、
「それは、できんな。ちゃんと仕事に見合った給料わたしているだろう」
と、めんどくさそうに言いました。
普段の私だったら、それは仕方のないことで、どうしようもないと分かっていたのですが、
ちょっとまえにほかの社員の、とある会話を聞いていたため、
我慢がなりませんでした。
わたしは間髪入れずに、こう言いました。
「社長、わたしはこの会社に入ったとき、お伺いしました。
売り上げの目標達成をしたら、給料は上げていくつもりだと。
でも社長、わたしは子供が事故に遭った時、まともに出勤できないなかでも、
業務が送れないように、給料を下げられてもそのまま頑張ってきました。
正社員に戻るときに、
『しばらくのブランクがあるから、
まともに業務ができるようになったら給与を戻すから、
それまでは研修社員と同じ金額で』とおっしゃっていましたね。
あれからもう5年以上たちました。
売り上げは、あのころと比べて3倍になりました。
わたしの現場は主婦層ばかり、
家の行事、学校の都合、子供さんのこと・・・
急にお休みになるのは仕方がないので、
そんな時はわたしが代わりに、
昼休みも惜しんで、サービス残業も、タイムカードも押さず休日出勤してきました。
わたしの給料は、勤続10年以上たったのに
まだ月給14万円なのですか?
わたしは40歳なのに、まだ手取り12万にも満たないのですか?
わたしのあとに入ってきた、3年目の、
わたしの業務をまだ4割ほどしか引き継いでいない社員が、
手取り18万で文句を言っていたのを聞きましたが、
なぜ3年目の社員が、
わたしより給料が4万円も高いのですか?
どういうことなのか納得のいくように説明していただけませんか」
すると、社長は
「そんな仕事のやり方をしろなんてだれも言っていないじゃないか、おちつきなさい。
実力に見合った適切な給料を出している。
そもそも、その3年目のは、うちの会社の取引先の娘さんじゃないか。
君と一緒にしてはいけない」
言葉が汚くなって申し訳ないのですが、わたしは、
「クソ!コネかよ!!!!」
と言う言葉しか心に浮かびませんでしたし、
実際に
「前借できないのは解ってましたが、納得いかないので出るとこ出てやる!」
と叫んだらしいです(冷や汗)このあたりの顛末は、あまり覚えていません。
・・・翌日。
社長から、そっと
「出るとこ出るのは、頼むからやめてくれ。
今週わたす、給料日の明細を見て、納得してくれ」
と耳打ちされました。
給料日、明細を見てみると、
月給が20万円になっていました。
手取りも、比例して上がっていました。
生きていれば何かができる、はず。命があれば、できることがある、かも。
だいぶ、給料が上がりました。
しかしそれでも、40代の、部下がいっぱいいる現場リーダーにしては、
給料はかなり低いです。
ほんとうに、お金がないのだけれど、
伯母の入院費とか施設費とか、をのぞけば、生活はまだできるお金はあるし、
まだ電気もガスも水道も止まっていません。
今、ギリギリだけど、全員の首の皮は1枚でつながっています。
全員、生きている。
そして、生活を支えるたった一本の糸は、細く、
わたしだけがつかんでいます。
手を離せばラクになるのは解っているけれど、
糸が手に食い込んでも、今ははなしてはいけない・・・!
手っ取り早く何らかの方法でお金が手に入れば、どうにかなる!
わたしの生き別れた兄は、サラ金数千万を返せずに行方不明になっているから、
サラ金でお金を借りることだけは、絶対にしたくない・・・
借りたくないなら、稼ぐしかない!
体ひとつつで、すぐにその日お金をもらえる仕事。
月に、今の仕事に+15万は稼がないといけないから、
それだけの仕事を・・・
さて・・・どうする?何をする?
よく聞くのは、ホステスだけれど、・・・わたしはお酒は一滴も飲めませんでした。
下戸、と言うレベルではありません。生死をさまようレベルで受け付けません。
ホステスは無理です。
だったら何を・・・
格安スマホでネットをあさると、いろいろ出てきました。
そこで見たのは、ナイトワークの紹介ポータルサイトです。
このナイトワークは、水商売ではありません。
風俗のほうです。
日給6万円保証とか、日払いとか、魅力的な事が書かれています。
ただ、掲載されている写真は、
若くて魅力的で、誰が見てもかわいいと思えるような、きれいな女性ばかりでした。
(・・・若い女の子だけよね。そりゃそうだ、いつだってもてはやされるのは、若くてきれいな人ばかり)
ところが、ときおりちらほらと、
「採用率100%」「40代以上OK」「ぽっちゃり・ミケポ大歓迎」
という文字が見えます。
(※ミケポ=体重3ケタのこと。つまり、100キロ以上の女の子のことです)
(もしや・・わたしでもだいじょうぶ?)
そう思ったわたしは、ポータルサイトをなめるように見ました。
すると、
「太っている女の子しかいないお店」
なんていうのが、けっこうたくさんあるのを見つけました。
(これはもしかしたらもしかして、わたしでもいけないことはないんじゃないの・・・)
自分のことは、
もう、女じゃないだろうコレ、と思われて当然の見た目だと思っていたけれど、
なぜかよくわからない、勇気のようなものがわいてきました。
よし、問い合わせをしてみよう。
わたしはときどき、理解不可能な思い切りの良さを発揮します。
そのお店に、連絡をしてみよう・・・!
つまりは、
そういうお店で働こう、と思ったのです。
(続きます)